選択
新聞に人生相談なるコーナーがある。
最近なぜかそれを読むのが楽しみだ。
ひとがどんな状況で、どんな風に悩んでいるのかは様々で、悩みに答える人も様々だが、なるほどとうなづく鋭い考察が多い。
先日のお悩みは、孫の引きこもりについてだった。
成績優秀だった孫が、高校受験の失敗をきっかけに、うちに引きこもるようになって1年たってしまったと…
娘夫婦もあれやこれやと手を尽くしているのだが、当の本人が将来の話を嫌がってどうしようもないそうだ。
親になって思う。
子どもにはなるべく、心身ともに平和でいてほしいと。同時に、ひとの生きる辛い部分もちゃんと抱えて生きて欲しい。
その相談へのアドバイスは、周りであまり「既存の道」へのコントロールをせずに、本人の意思を尊重しては、といったものだった。
普通に高校へ行く。普通に大学へ行く。もしくは、普通に就職する。
普通に恋をし、普通に結婚をし、普通に子供を産み育てる。
普通に家を買い、普通に年をとり、普通に生きていく。
普通、というものは当然存在しないと、みんな気づいているけれど、やっぱりその「既存の道」にいないと心配にはなるらしい。
別に1年2年、寄り道したっていいじゃないか。周りでさわいで勝手に既存の道に戻そうと焦らずに、本人のことをもっと見てみたら。だそうだ。
なるほど、でも、息子が高校で勉強せずに1年一見無駄に過ごしていたら焦るなあ…といのは感想。
それを個性、として受け止める器と余裕が欲しいものです。いざ、自分がそういう直面に出会ったら。
反面、自分自身も既存の道とは程遠い生き方をしてきた気がするので、半分諦めてるんだろう両親に感謝もしながら。
純粋にニートを楽しむ
9ヶ月ほどニートをしていたことがあるんですが、その間ずっと肩身が狭いというか、何者かに人間としての質を問われているような気分がしていました。
しばらくゆっくりしようと思っていたので、ぎりぎりまで求職活動もしていなかったんです。
毎日好きなことをして、のんびりニートを満喫していたわけです。
最初のうちは純粋に自由な毎日を楽しんでいたんですが、日を追うごとになんというか、後ろめたい気持ちが生まれてきました。
働いていないということは、社会に参加していないということ。
要するに、社会の一員として認められていないような気がしてきたんです。
しだいに家を出るのもおっくうになり、軽い引きこもりのような感じになってしまいました。
そんな中、友達の誘いで久しぶりに飲みに出かけた時のこと。
友達にこの話をしたら、「見かけによらず真面目なんだねぇ」と言われました。
見かけによらずっていうのが少々引っかかりましたが、まあそれはおいといて。
で、その友達にこう言われたんです。
「まあでも、ずっとこのままでいるつもりはないんでしょ?だったら、働き始めたらもうできないようなこと、今のうちにやっておいたら?」
それもそうか、と思い直した私(単純)。
そんなに特別な言葉ではなかったと思うんですが、すっかり自信をなくしていた私にとってはとてもありがたい言葉でした。
それからは、取りたかった資格を取ったり、家族で旅行に行ったりして、再び純粋に自由な時間を楽しむことができました。
人間、気の持ちようで変わるものですね。